【連載20】プラットフォームで時代の変化を導く、Tably田中洋一郎氏が求められ続ける理由とは

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こんにちは!TECH Street編集部です。

前回、株式会社ダイヤモンド社CTO清水巖氏にインタビューをしましたが、今回は連載企画「ストリートインタビュー」の第20弾をお届けします。

「ストリートインタビュー」とは

TECH Streetコミュニティメンバーが“今、気になるヒト”をリレー形式でつなぐインタビュー企画です。

企画ルール:
・インタビュー対象は必ず次のインタビュー対象を指定していただきます。
・指定するインタビュー対象は以下の2つの条件のうちどちらかを満たしている方です。

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“今気になるヒト”清水氏からのバトンを受け取ったのは、田中洋一郎さん。

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田中 洋一郎 Yoichiro Tanaka/Tably株式会社
業務アプリ向けの開発ツールやフレームワークの設計に携わった後、mixi Platform、LINE Platform の技術統括を行う。日本でのソーシャルアプリケーションの技術的な基礎を確立しただけでなく、メッセージングアプリにおいても世界に先駆けてBOT Platformの立ち上げを主導した。その後もプラットフォームのさらなる進化に日々チャレンジし、現在はTably株式会社に参画。著書『ソーシャルアプリプラットフォーム構築技法』、『OpenSocial 入門』、『mixi アプリ開発&運用コンプリートブック』、『開発者のためのChromeガイドブック』。

 

――ご紹介いただいた清水様より『田中さんはエンジニアとして、最先端の企業で活躍されたスーパーな方で、大変ユニークな生き方をしている人。いまは自作キーボードの沼にはまっています。』とご推薦のお言葉をいただいております。まずは、今の田中様を形作る原体験からお聞かせ下さい。

田中氏:エンジニアとしての芽生えは小学4年生。ファミコンが発売された後に出た任天堂のファミリーベーシック(FAMILY BASIC)がきっかけとなりました。それは自分でプログラミングができて、用意されているキャラクターを活用しながら、簡単なゲームを作ることができました。それが僕のプログラマーとしての原点となります。

独学で勉強しながらゲームを作っていくと、思い通りに動いたり、反対に思い通りに動かなかったりします。当時、インターネットはなく、パソコン通信も一般的ではなかったので、情報を得るには本屋に行くしかありません。本を見ながらプログラミングを知っていき、できないことがだんだんとできていく面白さを感じ、すっかりハマってしまいましたね。

中学、高校はコンピューターから離れ、スポーツばかりをしていましたが、大学の専攻に選んだのは電子工学。でもハードにはさっぱり興味が沸かなかったので、ソフト系の研究室に入ることに。僕が卒業する少し前にやっとWindows 95が登場するような時代にもかかわらず、担当教授から「これからはUNIXも個人で使う時代になるし、Javaが世の中を席巻する」と言われました。教授の助言がターニングポイントとなり、面白そうだと思いました。

Javaでプログラミングを書くと、Dukeというキャラクターがブラウザの中で動いたり、当時はインストールが必須だったプログラムも、インストールしなくても向こうからやってきたりします。それで“革命が起きる”と直感し、大学4年生の時には“Javaで食べていこう”と考えました。

でも、そんなことを言っていると当時は小馬鹿にされたものです。Javaは遊びの言語で、仕事になるわけがないと言われていた時代でしたが、僕には確信がありました。

Javaで何かを作っている会社が日本にはまだなかったので、新卒でオフコンの会社に入社。2000年問題真っ盛りの頃だったので、それについての仕事ばかりを半年ほどやっていましたが、そうこうしているうちにJavaを本業とする会社が登場。それを当時のJava Worldという雑誌で見て、“僕が行くべき会社”だと感じ、入社半年ではありましたが辞表を提出し、大学卒業時に書いたJavaをテーマにした論文を、転職志望先に送り合格しました。

 

――当時のJavaは夢のある感じがありますが、世の中的には実務には必要とされていなかった言語だと受け止められていたようですね。

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田中氏:そうかもしれませんね。でも、転職するにあたっては、あまりそういった声は意識していませんでした。結局、世の中は変わりますから、世の中を変える会社にいたいという気持ちがありました。

とにかく“Javaの時代が来る”ということは間違いないと思っていました。教授がそう言っていたというのもありますが、インターネットが広がっていくときに、コンピューターが個々で分断されているのではなく、繋がっている状態になったときに、プログラムもそれに付いていかなければならないと考えていました。インターネットに合ったJavaという言語や実行環境が当たり前になるという確信はありましたし、そうならなければインターネットは広がらないとまで考えていました。

また、もうひとつJavaに魅了された理由としては、無料で利用できた点にあります。当時の業務システムを動かしているコンピューターは、それこそ何百万円や何千万円もしていましたし、Microsoftの開発環境は、何十万円や何百万円レベル。そういった環境の中、無料でそれに匹敵するものができてしまうわけですからね。インパクトは大きかったです。

同時に無料だからこそ、これから色々な人が参入してくるだろうとも考えていました。なので“急がなくちゃ”いう気持ちもあったかもしれません。

 

――早い段階で転職して、自らがやりたいと思っていた仕事に就くことができました。そこから、どのようにキャリアを積まれていったのでしょうか。

田中氏:実は、そこから30歳になるまでに5、6社経験しています。といっても、自分で選択していったわけでなく、上司にくっついていって、チームごと転職していったという感じですかね。フレームワークを作る専門家のような集団に所属し、様々な会社から委託を受けていました。言い方を変えれば、転職を繰り返していたわけでなく、チームとして、会社を転々としていたということです。チームを率いていた上司は、最初の転職先で出会いました。自分たちのフレームワークの専門知識を高めていくことで、色々な場所で市場価値が出ると考えていて、それが見事にはまった感じです。

その経験の中で、技術面のみならず、色々な会社があるという気づきがありました。要するに、同じ仕事を担当しても働きやすかったり、働きにくかったりする会社があるということです。また、フレームワークというOSのようなものを担当することができたので、その上で作られる様々な“もの”だけでなく、“作り方”を見ることができました。

やがて転機が訪れます。インターネットが進化をしていく過程で、「Mash up」という言葉が聞かれるようになり、「Mash up Award」というコンテストが始まります。それは世の中にある様々なAPIを組み合わせて、便利なWebアプリを作ろうというコンテストでした。僕はそこに、昔Javaで見たものと同じような夢を見出しました。要するに、Webアプリなので、色々な人が簡単に使えるという点に面白味を感じ、そのコンテストに個人で応募。めでたく受賞をしました。

そのコンテストはサン・マイクロシステムズと、リクルートのメディアテクノロジーラボが主催していたのですが、受賞後のインタビュアーがGoogleと仕事をしている方でした。当時、Googleは日本ではあまり有名ではなかったのですが、「デベロッパーコミュニティを日本で立ち上げたいけれども、どうしたらいいのか分からないので、その立ち上げの検討会に参加しないか」と打診をいただきました。

また、当時はアメリカでFacebookが流行り出していた頃で、日本にもそれが漏れ聞こえてきました。日本にはmixiがありましたが、FacebookはFacebook内でアプリが作れるらしいと聞いていました。今でいうソーシャルアプリプラットフォームの出たての頃ですね。

僕が企業に所属するようになってからずっとフレームワークを作ってきて、その上で様々なアプリが動いていました。さらにさかのぼると、OSがない時から僕はコンピューターをいじっています。次々と登場してきた様々なOSを見てくるなかで、実は自らの手でOSを作りたいという夢を持つようになっていました。自分で作ったものの上で、いろいろな人が作ったプログラムが動くということが究極だと思っていて、だからフレームワークも面白く感じていたのだと思います。そこでソーシャルアプリが登場し、“また新しいOSが出てきた”と感じ、Facebookプラットフォームにのめり込んでいきました。

そしてGoogleから呼ばれたときに、発表前だった、OpenSocialを触らせてもらい、Javaと同じような感動を再び味わいました。OpenSocialは、どのSNSでも同じソーシャルアプリが動作する、という世界を目指していました。そこで“また世の中が変わる”と思いましたね。その後Googleとやり取りをしている中で、「Google API Experts」の第一号として認定されることになりました。現在は「Google Developers Experts (GDE)」という名前に変更されています。

ソーシャルアプリの可能性を感じていたのですが、今のチームにいるとそれを仕事にできないと思い、離脱することを考えるようになっていました。そこでタイミング良くミクシィから声をかけていただきました。ミクシィもちょうどOpenSocialを活用してプラットフォーム化したいと思っていて、それを手伝ってほしいと声をかけられました。その段階で、僕はいわゆるSIerからWeb系に移りました。それが30歳か31歳の頃、大きな転機となりました。

 

――田中さんには、OSのようなベースを押さえるという思想がずっとあるから、時代がどんなに変わろうと、世の中に求められ続けるのですね。Googleとの出会いは、ご自身が積み上げていったものがあったからこそ引き寄せた必然のような気がします。

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田中氏:僕の転職のタイミングはほとんど、ベースが変わりそうなタイミングですね。転職もそうですし、コンテストに応募したのもそう。全て自らが動き、やりたいことを獲得していった結果だと思っています。ミクシィに入社した時は、ガラケーが全盛のときで、そこで僕が技術統括としてソーシャルアプリのプラットフォームを作りました。当時、mixiでは様々なアプリが作られましたが、実際に多くの人がガラケーでソーシャルアプリを使っているのを見たときは、とても嬉しく感じましたね。

また、DeNAやGREEにも知り合いがいたので、「日本は大きなマーケットになるから共通のプラットフォームにしよう」と声をかけました。社長や取締役にも了解を得て、DeNAやGREEも話に乗ってくれて、ソーシャルゲームの一大ムーブメントが起きました。

そのように仕掛けたのは、野心というよりは、Googleが打ち出していたOpenSocialの思想に影響を受けていたからだと思います。ひとつ書けば、どのSNSでも動くという環境を日本でも作りたいと思い、周りに声をかけたのです。その際に口説くために「マーケットも大きくなる…」といった枕詞をつけたという…これは完璧に後付けですね(笑)

やりたいことはずっと変わりません。オープンソースでみんなが使うものを作り上げることで世の中が変わるという思想を持ち続けています。ビジネスの部分は周りを説得するためのひとつの材料でしかありませんでした。僕自身はあまりお金というかビジネス側に興味はありませんが、そういった材料がないと周囲は受けてくれないと考えて、先ほどの枕詞につながります。

その結果、課金やガチャなどでソーシャルゲームが社会問題になってしまいました。様々な雇用を生んだり、クラウドサービスが使われるようになったりしたのは、ソーシャルゲームの発展があったからこそだと思うので、その点においては寄与できたと思っています。しかしその反面、負の部分も生んでしまった。“こんなはずではなかった”と僕自身、とても責任を感じています。

ミクシィに行ってからはソーシャルゲーム一色になってしまい、“これは本当に自分がやることではない”と思い始めたところでガラケーが廃れ始め、iPhoneやAndroid、そしてLINEが登場。そして今度はLINEから声がかかります。そこでもやはり、プラットフォーム化したいから手伝ってほしいと声をかけていただきました。LINEはSNSというよりはチャットというイメージですよね。ゲーム中心ではなく、そこでもっと実用的なプラットフォームを作れるのではないかと期待をして転職しました。

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最初はmixiと同じようなプラットフォームを作っていきましたが、やはりチャットなので、チャットbotに可能性があると思い、botのプラットフォームを作りました。それをオープン化したのは、おそらく世界でもLINEがはじめてだったのではないかと思います。

LINEには、ガラケーからスマートフォンというデバイスの変化に付いていく必要があると考えたので転職を決意しました。また、ゲームはそこそこにして、スマートフォンを色々な人がもっと活用することができるための何かを作りたいという思いもありました。

結果としてLINEでは、そういった思いを結実する形で自分の世界観を作ることができました。例えばヤマト運輸さんがbotを使っていて、LINEで再配達の申し込みをしたり不在通知を受け取ったりできるようになりました。銀行や証券の株価がチャットで見られたり、何かをオーダーできるようになったり、新しい世界をひとつ作れたと感じています。ただ、botのプラットフォームを作った時点で、“やり切った”感を覚えてしまいました。

そこで次に何をしようか?と考えていた時に、DeNAのCTOから声がかかりました。DeNAも大きくなり、様々な事業を手掛けていて、多角化された事業の中でテクノロジーが難しい局面になっていると。その整理を手伝ってほしいと誘われました。そこではエンジニア組織づくりがメインの仕事となりました。

並行して、DeNAにいながらGoogle Developers Expert として VUI (Voice User Interface) の研究に2年ほど取り組ませていただきました。GoogleがGoogleアシスタントをリリースしたタイミングで、声でコンピューターを操作するというのが、昔のSF映画みたいですが、大きな可能性を感じました。声をビジネスにするのは現状なかなか難しいのですが、ガラケー、スマートフォンの次は音声で操作する何かだと考えています。

そして、その後現在のTablyにジョインします。ミクシィに転職をする少し前くらいから、IT業界で有名な及川卓也さんと一緒に活動していまして、及川さんが起業するタイミングで誘っていただきました。Tablyは現在プロダクトマネージャーやプロダクトマネジメントの研修やコンサルタントをメインで行っている会社です。僕が入社してもう少しで1年半ですが、裏方として事業に役立つものを作り続けています。

 

――田中さんの仕事選びの基準として、ベーシックとなるところを一貫して追求しているという点と、次の時代にくる技術のベースを押さえに行っているという点があると思いますが、それ以外の軸はあったりしますか。

田中氏:行く先には必ず理解者がいる、ということがあります。僕は思っていることを口に出しますし、転職することに抵抗があまりありません。そのせいか、相手問わず噛みつくときはガブガブと噛みつきます。

もちろん今では丸くなりましたが、20代のときは「狂犬」と呼ばれていたくらいです。ただ、やはり僕も間違えたことを言いたくはないので、きちんとストップをかけてくれたり、“この人にストップをかけられたら自分も話を聞こう”と思える人がいるようにしています。それがなければ単なる異端児や一匹狼で終わってしまいますからね。つまり、軸としては【誰と働くのか】ということを重視しています。

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――今後は、どのような働き方をされていくのでしょう。イメージはありますか。

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田中氏:イメージしていないというのが本音です(笑)。1人では何もできないと思っているので、独立はできないと自覚しています。また大きなプラットフォームを作ってみたいと思っていますが、プラットフォームを構築してそこから、と考えたときに、自分1人でやるよりは組織の中に入って仕事をした方が価値を発揮できるだろうな、と考えています。

働き方には、あまりこだわりはありません。“絶対に自分でプログラムを書きたい”とも思っていませんし…。例えばミクシィやLINEではチーム開発をしているので、ほぼ自分ではプログラムを書いてはいませんでした。達成したいことはありますが、誰かが作ってくれるのならばそれでいいと考えるタイプです。その代わり、趣味プログラミングとしてコードは毎日書き続けています。

 

――チームでものを作るとき、組織づくりのこだわりがあったら教えていただけますか。

田中氏:例えば、今はコロナ禍でリモートワークが中心になりますよね。そこで“誰にも邪魔されずに、自分のプログラミングに集中できる”という考えの人は、僕のチームには向きません。誰かが困っていたら当たり前に助ける、たとえ自分のせいではなくても、自分が関わっているもので何かトラブルが起きたら、“なぜそれを防げなかったのか”と自分を責めるような人たちと仕事がしたいです。

自分のチームメンバーに対しても、直球では言いませんが、「いくら自分で成果を出したとしても、それを100%で評価をしない」と伝えます。むしろ誰かを助けることや、人に良い影響を与える方を高く評価するというポリシーです。

SIerにいたときは、指示書に書かれているものを作るという人たちばかりを見てきました。しかしミクシィに入ってくる新卒の人たちはその真逆で、誰かが困っていたら助けますし、自分のせいではないのにシステムが落ちたら自分も落ち込んでいました。僕が上司となって評価をし、「プラス評価だった」と伝えても「僕はそう思ってはいない」と返してくるストイックな人が多かったのです。それがWeb業界に来た時のギャップとして強烈に印象に残っています。今でこそWeb業界には色々な人がいると思いますが、当時の僕が感じた印象はそれでした。

 

――ありがとうございます。最後に、これからの時代、エンジニアとしてどういう生き方をしたら良いのか、ご提言いただけますか。

田中氏:今、ソフトウェアエンジニアとして関わっている人たちは大変だな、ひどい言い方をすれば不幸だな、と思っています。色々なものがありすぎます。昔はネットにも繋がっていないただの箱だったのに、今は選択肢がたくさんありますし、何か作りたくても複雑さが昔に比べて増していて大変だろうなと感じます。前提知識もたくさん持っていないといけませんし、昔より勉強量が増えています。僕はコンピューターの成長に合わせて勉強できたので時間をかけることができましたが、今はそれを短期間でやらなければいけません。その点が大変だなと思います。

色々なことができる人がもちろん重宝されますし、それが多くの会社が求める人材要件だと思いますが、どうしても浅く広くになってしまいがちです。このご時世、全てを深く勉強していくことは難しいです。だからこそ自分が“これは世の中を変えそうだ”と思うものを見つけてほしいと思います。好きであればたくさん時間もかけますし、愚直に続けられると思います。そういったものを、なるべく早く見つけてほしいですね。

しかしそれを見つけるためには、様々なものに手を出さなければいけません。なので興味は広く持ちつつ、“これだ!”と思うものを見つけたら、とことん追及することにチャレンジしてほしいと思います。それが自分の武器になるのではないでしょうか。そういった武器になりうるものの選択肢が今はたくさんあるという点では幸せです。逆に、決めることがとても難しい時代でもあります。そういったものを見つけるためのアンテナを立てつつ、様々な努力を重ねてほしいと思います。

 

――“これだ!”というものを見つけるためのヒントを教えてください。

田中氏:ハードが変わればソフトも変わるので、まずは、ハードウェアを見るべきでしょうね。ユーザーが使っているものは大きなヒントになると思います。

例えばiPhoneが出る少し前は、多種多様なPDAが出てきました。おそらく次もそのようなことが起きると思っています。よく分からないハードが出はじめたら、予感した方がいいですね。また、ユーザーが使いそうな新しい何かが出そうとなったときは、プログラミングやOS、仕事も変わります。そういうアンテナの張り方がいいと思います。

 

――ハードといえば、キーボードを作っていらっしゃるのですよね。

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田中氏:作り始めたのは昨年の夏です。それまではハードはよく分からないと思っていましたが、Googleの知り合いから「キーボードにはマイコンがついていて、それがオープンソースになって公開されている。自分でファームウェアをいじってキーボードに焼き付けると、キーを押して入力される文字を自由に変えられる」という話を聞きました。

キーボードはただ叩くだけの板だと思っていたのですが、それがソフトウェアで遊べるということを知り、しかも今やキーボードは既製品だけでなく、いろいろな人が作って売っているということも教えてもらい、“面白そうだ”と、はじめたのがきっかけです。やり始めてみると、意外と簡単なんだと思うようになり、沼にハマっていきました。

色々とこだわりを詰め込んでいます。例えば、キーの配列が特殊で、一般的なキーボードとは反対に縦に揃っていて横にズレています。これは僕の指の長さにジャストフィットさせています。キーボードは毎日叩いていますし、プログラミングをする上で僕の生命線です。なぜ今までキーボードにこだわらなかったのかと思いましたね。

せっかく良いものができたので、他の人にも使ってもらえるかなと思って販売を始めました。完全にカスタマイズが可能で、キーキャップとキースイッチは別売りになっています。基板とプレートと部品で13,500円。嬉しいことに、月に2、3台は売れているようです。今は自作キーボードで有名なお店に並べてもらっています。

 

――キーボードの話もありがとうございました。それでは、次回の取材対象者を教えてください。

田中氏:KDDIの藤井彰人さんを推薦します。藤井さんは、私が応募したMash up Awardの審査員であり、サン・マイクロシステムズの担当者で、当時Javaを広める活動をされていました。僕はJavaが好きだったので、とても意見が合いましたし、「サン・マイクロシステムズ賞」を受賞して、そこから仲良くなりました。その後藤井さんはGoogleに転職し、エンタープライズ系のマーケティングのトップを手がけて、その後KDDIに行きました。

藤井さんは僕を引き上げてくれた人です。コンテストに応募したものを評価してくれて、世に出してくれたということでとても恩を感じています。そういう人がGoogleに行き、その後にKDDIに行ったということでとても驚きました。今は通信キャリアで人々のインターネットを支えていると思いますが、どのような気持ちで通信キャリアに行ったのかなということを聞いてみたいですね。

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以上が第20回のストリートインタビューです。田中さん、ありがとうございました!
自作キーボード、とっても気になります!(笑)

次回は、KDDI株式会社の藤井さんにバトンタッチ。今後のストリートインタビューもお楽しみに。

▼ご紹介いただいた株式会社ダイヤモンド社 CTO清水さんの記事はこちら
【連載19】百年続く企業の新たな 100 年に挑戦する、ダイヤモンド社CTO清水巖氏が戦い続ける理由とは
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(取材:伊藤秋廣(エーアイプロダクション) / 撮影:古宮こうき / 編集:TECH Street編集部)