こんにちは!TECH Street編集部です。
連載企画「ストリートインタビュー」の第51弾をお届けします。
「ストリートインタビュー」とは
TECH Streetコミュニティメンバーが“今、気になるヒト”をリレー形式でつなぐインタビュー企画です。
企画ルール:
・インタビュー対象には必ず次のインタビュー対象を指定していただきます。
・指定するインタビュー対象は以下の2つの条件のうちどちらかを満たしている方です。
“今気になるヒト”能登さんからのバトンを受け取ったのは、株式会社エレクトリック・シープ 共同創業者 / 代表取締役 紀平 拓男さん。
ご紹介いただいた能登さんより「DeNA時代の同僚である紀平さんをご紹介します。ご自分で起業された会社をDeNAに売却してジョインされてきた方です。エンジニアのキャリア相談に乗っていると、技術力を上げれば自分の価値も自然と上がると考えている人が多くいますが、やはり技術を利用してビジネスやプロダクトを成功させて初めて意味を持つ、という側面もあると思います。尖った技術を深く理解して活用しながら、他にないビジネス価値を少数精鋭で創造するという点では、僕の出会った中では紀平さんが一番の成功者だと思います。シリアルアントレプレナーで、何度も起業して成功させていますし。そういった点で多くのエンジニアに知ってもらいたいと思い続けてきた人なので、このシリーズでぜひ取り上げてもらいたいと思っています。」とご推薦のお言葉をいただいております。
紀平 拓男 さん
株式会社エレクトリック・シープ 共同創業者 (co-founder) / 代表取締役
過去に複数の起業をしているシリアル・アントレプレナー(連続起業家)。また、IT 技術者として Web 関連の開発においても高い評価を得ており、経営と技術の両方を強みとしている。
起業の実績としては、2008 年のDeNA への会社売却や 2018 年のスマートニュースへの会社売却がある。スマートニュースに売却した会社はサンフランシスコで起業し、東京とサンフランシスコを往復して経営した。
IT 技術者としては、特に JavaScript 関連の低レイヤーの開発に強みを持ち、その分野において高い評価を得ている。多数の登壇を経験しているが、最も直近では Google Developers Group において登壇した。
中高一貫校で、6年間どっぷりプログラミング漬けの日々を送る
ーーまずは、現在の紀平さんを形作る原点をお聞かせください。
紀平:幼稚園の頃に、自宅に当時最先端のコンピュータがいくつかあり、自然に興味を持つようになりました。小学生になると、自宅にあった雑誌「マイコンBASICマガジン」を参考にして、自分でソースコードを書いてゲームを楽しみながら、プログラミングに触れていきました。
中学生になるとパソコン部に入部し、私の学校は中高一貫校でしたので、中3が中1を、高1が中2を教えるというスタイルで、BASIC言語やC言語、アセンブリ言語を先輩から学びました。今でいう「ペアプログラミング」のようなかたちで、何か間違いがあるとすぐに先輩から指摘やアドバイスをしてもらえる環境だったので、プログラミング能力がかなり上がったと思っています。
ーー中学時代の部活では、BASIC言語やC言語を用いて何を作っていたのでしょうか?
基本はゲームを作っていました。作ったゲームを友達に遊んでもらったり、自分でプレイして楽しんでいましたね。部活動の目的としては、年に1度の文化祭で出すプログラムを、半年程かけて作ることで、そのために励んでいました。
ゲームはプレイすることも、作ることも両方楽しかったのですが、作ることの方がより楽しいと感じました。ただ当時は実力が足りなかったので、作りたいものが作れず、途中で破綻することもありましたが、それも良い経験になったと思います。中高一貫校だったので、6年間はどっぷりプログラミング漬けの日々を過ごしました。
エンジニアとしての挫折から経営の道も考えるようになる
ーー高校を卒業した後は、どのような道に進まれたのでしょうか?
大学に進学すると、2つ年上の高校の先輩で川口耕介さんという方が大学生ながら会社を経営されていたので、そこでバイトとして働きました。川口さんは、Jenkinsと呼ばれる有名なソフトウェアを作った世界的に一流のプログラマーで、英語版のWikipediaに名前が載っている方です。私は、その川口さんを中高時代からずっと見てきました。
ーー紀平さんからみて、プログラマーとして川口さんはどのような方だったのでしょうか?
川口さんが書くコードのスピードや美しさ、構成、デザイン力は、他の追従を許さない圧倒的なものでした。彼に追いつこうとずっと頑張ってきましたが、20歳の頃に、差が縮むどころか、差が離れていくばかりで追いつけない、勝てないと感じたとき、挫折を味わったのです。これが私にとって重要な分岐点となり、エンジニアとして大成することを諦め、経営者の道を考えるようになりました。
その後、私のバイト先である川口さんが経営されていた会社が閉じるという話がでた時に、「会社がなくなるならば名義だけいただきたい」とお願いし、20歳のときに学生起業というかたちで会社を譲り受けました。
ーー20歳で会社を譲り受け、その後どのように会社を展開していったのでしょうか?
小さな受託開発のベンダーとしてスタートしました。友だちを集めて、最初は4人で始め、最終的に8人まで増えました。仕事を取ってきて、それをプログラミングで製作して納品する、ということをひたすら繰り返しました。
私は人生で後悔したことはほとんどありませんが、当時、唯一ともいえる大きな心残りがあります。それは、この時に受託開発のみで自社開発を行わなかったことです。
今まで私たちが培ってきたノウハウをうまく利用して自社プロダクトを出してみようかという話も出ていましたが、それを実行すると社員に給料を払えなくなってしまうと考え、実行できませんでした。
実行していたとしてもおそらく失敗したとは思いますが、新しい経験をしないまま終わってしまったことをとても残念に思っています。
ブラウザでプログラムが動くことに可能性を感じ、Webの専門家を志す
ーーその後、転機となった出来事はありますか。
Webに関して、とても強い関心を持つようになりました。当時、JavaScriptはあまり評価されていない言語でしたが、ブラウザでプログラムが動くことにとても大きな可能性を感じたのです。
全てのコンピュータにブラウザが入るようになり、そのブラウザ上で確実に動く言語が JavaScriptです。私が小さい頃、初期のコンピュータに最初からBASIC言語が内蔵されており、BASIC言語でゲームを作っていましたが、それと同じ感覚を持ちました。JavaScriptは、インストールをしなくても動く言語で、私はBASIC言語と同レベル、もしくはそれ以上の可能性を感じました。JavaScriptの未来を信じ、私はWebの専門家になろうと思ったのです。
ーーWebの専門家になろうと考えられてどのような行動を取られたのでしょうか?
友人とさまざまなJavaScriptに関するプロジェクトを進める中で知りあった大学教授に、「JavaScriptの研究をしたい」と持ちかけました。私は、大学の専門が情報系ではなかったので、このタイミングでしっかりと学びたいと思ったのです。そして当時私は、まだ学生でしたので学生インターンというかたちで、IBMの東京基礎研究所を紹介していただきました。
ーーIBM東京基礎研究所とはどういった場所だったのでしょうか?
そこはトップレベルの研究者たちが活躍する場所で、さまざまな学びがありました。また、そこでの働きが認められ、私自身が客員研究員になり、IBMでしばらくJavaScriptの研究に従事することになりました。
研究所では、年配の方も多く、年齢と関係なく高いパフォーマンスを出されているのに驚きました。当時も今も「プログラマーの35歳定年説」などと言ったりしますが、絶対ではないと分かりました。
Flashの動的生成に取り組む
ーー研究所ではたらいた後はどのような道に進まれたのでしょうか?
研究は楽しかったのですが、やはりもう一度、「事業を作りたい」「会社を立ち上げたい」という思いが湧いてきて、この時に友人から起業しないかと誘いを受けたこともあり、2008年、当時28歳の時に起業しました。
当時はガラケーが主流の時代で、iアプリと呼ばれていた携帯アプリはインストールが必要で、私はそれがとても嫌でした。一方で、携帯上で動くFlashは、インストールしなくてもURLにアクセスをすれば動きます。一般的に動的に生成できないと思われていたFlashを、私たちは動的に生成することによって、複雑な挙動ができるプログラムを携帯上で動かそうと取り組みました。
ーー実際に起業してみていかがでしたか?
起業した瞬間に、リーマン・ショックが起こりました。あれほどひどい目にあったのは後にも先にもありません。普通はソフトウェアのサービスからハードウェアの基盤まで、上流から下流のどこかでお金が動いているものなのですが、きれいさっぱりどこの市場も全く動かない状況になりました。資金調達が難しいのはもちろん、そもそも売り先がない状況が長く続いたのです。
かなり厳しい状況でしたが、それでも受託開発案件をいただきながら、なんとか会社を存続させることができました。
ーー起業した後、転機となった出来事はございましたか。
2010年頃、iPhoneが登場しました。当時、スマートフォンのシェアはまだ微々たるものでしたが、間違いなく伸びると思いましたし、そうなると私たちの事業に、将来性がなくなると思いました。やがてソーシャルゲームも登場し、資金が動いている業界だったので、そこに私たちの会社を売り込むことができるのではないかと考えたのです。
なぜなら当時、iPhoneでFlashが動かないという問題があり、それによりソーシャルゲームの移植に、業界全体が苦労していたからです。私はFlashにも詳しく、HTML5と呼ばれていたJavaScriptにも詳しいので、自分だったらFlashをHTML5で動かすことができるかもしれない、そうすればソーシャルゲーム業界にとても喜ばれるだろうと思い、M&A(会社売却)によるイグジットを目標として製品の開発を決めました。
目論見通りといったら言い過ぎですが、上手く製品を作り込み、そして会社を売却する話も順調で、上手くいったと思っていた矢先、今度は東日本大震災が起こりました。そして、何社かと進んでいたM&Aの話も、全て止まってしまったのです。
起業した会社の売却と同時にDeNAに入社
ーーそれは、リーマンショックと続いて、悪いタイミングでしたね、、
震災は自分の手の及ばないことですし、考えても仕方がないことです。しかし、私たちは自分たちの技術に対する自負があったので、「何とかなるだろう」と思っていました。幸いにも私たちの業界においては、震災の影響はあまり大きくはなく、M&Aの話も再開し、DeNAに2011年の7月に売却しました。そして、私自身もDeNAの中で社員として、HTML5 JavaScriptの専門家として活動を開始したのです。
当時のDeNAは、米サンフランシスコに人を派遣して子会社を買収して大きく成長しようというタイミングでした。私も現地に送られることになり、現地のエンジニアと交流する機会やサンフランシスコの独特な空気感を知ることができました。
また、ありがたいことに、私は会社を売却したことで社内で名前が知られており、さまざまな人に簡単に会うことができ、視野がかなり広がり、大変良い経験になりました。 DeNAでは、経営者の視点とエンジニアの視点を持つ希有な人材として認識していただき、とてもやりがいのある良い環境で働くことができましたね。
ーーDeNAからその後どのような道に進まれたのでしょうか。
DeNAには、3年間在籍しました。本当に良い環境でしたが、いろいろと風向きが変わり、当時は、モバゲータウンなどブラウザゲームが主流でしたが、App StoreとGoogle Playのスマートフォンのネイティブアプリに変わっていき、ネイティブアプリの方が断然注力されるようになっていきました。そして、社内でもWebを使うゲームが減っていき、ネイティブアプリの方が増えていったのです。この状況をみて「これは外に出るべきだ」と感じました。
ソーシャルゲームのおかげもあり、当時、日本のWebの技術力はとても高まったと思っています。この技術力は、アメリカと比較しても高いと感じたので、この高い技術力を輸出すべきだと考えました。そこで海外で起業することを真剣に考え、Webの専門会社として2014年にサンフランシスコに会社を設立したのです。
サンフランシスコはスタートアップの聖地というだけあって、カフェでは隣の席でストックオプションの話をしている、みたいなのが日常風景でした。多くの人がスタートアップで働いていて、会社を大きくしようという活気がありました。スタートアップの友だちもたくさんできましたね。
Webの専門家としてスマートニュース社に入社する
ーーサンフランシスコで起業した会社は長く続けられたのでしょうか。
サンフランシスコで起業して暫くした後、当時の私たちの技術を、スマートニュース社に興味を持っていただき、良いタイミングだと思い売却することにしました。
そして2018年に、売却と同時にスマートニュース社にWeb専門家として入社したのです。今もですが、当時のスマートニュースは、ネイティブアプリのApp StoreやGoogle Playでダウンロードするアプリで、そこにWebを入れるという発想がありませんでした。
Webを入れると、タイムリーに情報発信することができて、緊急性の高いメッセージでもすぐに反映することができます。そこで、Webのシステムを作り、しっかりとマネージするためのチームを作ることが、私に任された仕事でした。2018年から2年間、採用や技術のフレームワークなど、チームの立ち上げをゼロからやりきりました。
そして、2020年、コロナが世界中に流行しはじめた時に、最新情報をいち早く出すために私たちが今まで準備をしていた技術を世界中のユーザーから使っていただき、とても高い評価を受けることができました。このとき、社会貢献をしているという、大きなやりがいを感じていましたね。
ChatGPT‐4が登場した衝撃から、エレクトリック・シープ社を立ち上げる
ーースマートニュース社の後、エレクトリック・シープ社を立ち上げた経緯を教えてください。
スマートニュース社のWebチームも育ってきて、「次に何をしようか?」と考えていた昨年2023年3月に、ChatGPT‐4が登場しました。これは本当に衝撃的でした。2008年にスマートフォンが登場して、その15年前にインターネットが登場しました。さらにその15年前には、当時マイコンと呼ばれるパーソナルコンピュータが登場しているので、15年おきに新しい技術の潮流があるように思います。
インターネットの普及が始まった時は、私はまだ中学生でビジネスの側面では関われませんでしたが、スマートフォンの黎明期は、その波に乗れたと思っています。今回のChatGPTも間違いなく新しい技術の潮流になると思い、この夢のある技術に全面的に関わりたいと考え、昨年10月にエレクトリック・シープを立ち上げました。
現在、LLMは既存のビジネスを効率化するために使われることが多く、もちろん、それも大変重要なことだと思いますが、おそらくAIが及ぼす社会的影響は、そこではないところでも起こると考えています。
AIに人権が生まれる? AIが及ぼす社会的影響とは
ーーAIが及ぼす社会的影響とは、どのようなものか教えていただけますか?
AIによって今までできなかったことができるようになることによって、新しい問題が起こるのは間違いありません。
「初音ミクと結婚した」というニュースが以前出ていましたが、AIに人格を感じる人が今後増えていけば人権に近い何かも生まれてくると思います。例えば、自分好みのAIを作り、自分がそのAIに恋愛感情を持った時に、誰かがそのAIのデータを消したとします。そうなった場合、器物破損以上のダメージを相手に与えたと判断される世界が来るかもしれません。
人間はペットに愛情を持ちますが、AIに対してもペット並み、もしくはペット以上に愛情を持ち、動物愛護法ならぬ、「AI愛護法」ができるかもしれない。このような新しい問題を、キャッチアップするためにも、その最先端に身を置きたいと考えました。
ーー今後、紀平さんが考えている技術的な挑戦などはございますか?
現在、私たちは、コミュニケーションをAIによって円滑にすることを考えています。AIによる検索エンジンは、どこまでいっても既存のドキュメントからしか検索してくれません。多くの企業は、ドキュメントを整備していませんから、そのまま検索しても良い結果が得られません。私たちは、AIを使うことによって、元々のデータセットもしっかり更新されていくものを作りたいと思っています。
もしAIに分からないことがあれば、社内文書を参照したり、社内文書だけではなく、従業員にも参照するようになると良いと思います。従業員に聞くとほぼ正しい答えを返してくれますからね。それによりデータセットを更新していくものを開発しています。今いくつかの企業にサンプル導入していただいて手応えを感じているところです。
ーーありがとうございました。最後に、これからの時代にエンジニアとしてどのように立ち回るべきか、読者に向けてメッセージをお願いします。
最近の若い人は、優秀な人材が多いと思っています。新しい技術に触れるためには、技術書や専門書を買わなければいけなかった時代から、インターネットでそれが簡単に手に入るようになりました。世界のトップレベルのエンジニアとの交流を私たちはアメリカまで行っていましたが、今はGitHubなどで簡単にやり取りできるようになっています。しかも今はChatGPTなどのLLMが親身になって教えてくれます。これは若い人にとって良い環境だと思っています。そんな環境で揉まれて育ってきた若い人たちは、私たちより優秀になり得ると思います。
そんな中で私を含め、30代〜40代になると、自分の生き方に向き合い、ちゃんと考えなければいけないと思っています。他の人にない価値があるからこそ評価されますが、若い人が自分よりも技術力を持っているという現実を突きつけられる機会が今後どんどん増えてくるかもしれません。そのときに一体、何が自分の価値になるか、私自身、まだ答えが出ていませんが考える必要があると思っています。
マネージャーにならずに、現場1本でやってきた人が一定数いらっしゃいますが、今まではそれでよしとされてきました。しかし、今はフレームワークなどが高性能になってきて、抽象化がとてもよくできており、飛び抜けたエンジニアが全てを解決するという時代は、おそらく10年程前に終わっています。
今はある程度のエンジニアが数人集まれば、何でも作れるように土台ができつつあります。ますます他の人との差別化ポイントがなくなってきており、これは良いことでもあるし怖いことでもあります。
技術一本で、他の人と明確に差別化できるほど優れた人はいいですが、そうではない人は、いろいろなことに挑戦して、過去の経験をうまく組み合わせて、他の人には提供できない価値を生むことが大切だと思います。
ーー貴重なお話をありがとうございました。それでは、次回の取材対象者を教えていただけますか。
古川陽介さんをご紹介します。古川さんは、ひとつのことを極めたエンジニアとしても面白いですし、マネージャーとしてリクルート社に10年近くいらっしゃって、特に若い人たちのモデルケースになる人だと思っています。ひとつの業界において、影響力を持っていて、かつマネージャーとしてCTOクラスとしてリクルートで活躍されていらっしゃるので、その2つの観点から、私にはない知識量と経験量をお持ちです。私自身、毎回、お会いするたびに新しい刺激をもらっていますので、きっと面白いお話がきけることと思います。
以上が第51回 株式会社エレクトリック・シープ 紀平 拓男さんのインタビューです。
ありがとうございました!
今後のストリートインタビューもお楽しみに。
(取材:伊藤秋廣(エーアイプロダクション) / 撮影:古宮こうき / 編集:TECH Street編集部)
▼ストリートインタビューのバックナンバーはこちら