【連載21】“グローバルにベストな選択肢”を問い続ける、KDDI藤井流エンジニアの力を引き上げる努力とは

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こんにちは!TECH Street編集部です。

前回、Tably株式会社田中洋一郎さんにインタビューをしましたが、今回は連載企画「ストリートインタビュー」の第21弾をお届けします。

「ストリートインタビュー」とは

TECH Streetコミュニティメンバーが“今、気になるヒト”をリレー形式でつなぐインタビュー企画です。

企画ルール:
・インタビュー対象は必ず次のインタビュー対象を指定していただきます。
・指定するインタビュー対象は以下の2つの条件のうちどちらかを満たしている方です。

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“今気になるヒト”田中さんからのバトンを受け取ったのは、KDDI株式会社の藤井彰人さん。

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藤井 彰人 Akihito Fujii /KDDI株式会社 執行役員 サービス企画開発本部長
大学卒業後、富士通,Sun Microsystems,Googleを経て、2013年4月より現職。Sun Microsystemsでは、Solaris/Java関連ソフトウェアを担当、プロダクトマーケティング本部長や新規ビジネス開発を担当。Googleでは、企業向け製品サービスのプロダクトマーケティングを統括。過去にMashup Award 1-4を主宰し各種開発者向けイベントの支援。2009年より情報処理推進機構(IPA)の未踏IT人材発掘・育成事業のプロジェクトマネージャーも務め、若者の新たなチャレンジを支援している。

 

――ご紹介いただいた田中様から「藤井さんは僕を引き上げてくれた人です。コンテストに応募したものを評価してくれて、世に出してくれたということでとても恩を感じています。」とお言葉をいただいております。まずは、どのようなご経験を重ねてきたことで、今のお力を身につけられたのか、きっかけやキャリア変遷をお聞かせください。

藤井氏:小学校5、6年の時に電気屋さんで初めてパソコンを触りました。ゲームができるという理由で、当時非常に高価だったパソコンを親にねだって、中学1年ぐらいの時に買ってもらいました。そこからコンピューターに興味を持ち始めたというのがストーリーの始まりです。

自分でコード書けばゲームで遊べるということがとてつもなく楽しかったですね。雑誌を買ってきて、コードを自分で打って作っていると、ゲームをするより作ること自体が楽しくなってきた、というのがきっかけでした。

そんな子供時代を過ごしてきて、進学先に選んだのが名古屋大学の情報工学科。コンピューターサイエンスという学問を大学1年生のときからきちんと学べるところに入りました。とはいえ、ご多分に漏れずあまり勉強せず(笑)、中学生を対象にした学習塾を経営していたりしました。親が小学校の先生だったこともありましたし、普通にアルバイトをするだけでは面白くないと思っていたのですね。

社会人のスタートは、富士通です。そこで何年かSEを経験しました。当時、コンピューターは新しく、非常にスマートなものでしたが、ビジネスの現場におけるコンピューターはそうではなくて、“何徹もして動かせ!”という気合と根性の世界でした。入ってみて、自分の作ったものが動いているのを見るとやりがいを感じるのは確かですが、“何か違うな”と思っていました。

そんな当時、インターネットをまだモデムで繋いている時代に、“シリコンバレーというところがあるらしい”ということを知りまして、友達と2人でボーナスをはたいて旅行に行きました。1995~6年だったと思います。エンジニアが大きいブースで働いていて、1人の席にワークステーションがつながっている、そして自分でネットを立ち上げることができる環境で働いている…そんな姿を目の当たりにしました。

また、様々な文化にも触れました。Netscapeというブラウザにも触れたり、Silicon Graphicsに行くと、「今日は忙しいから無理だけど、明日デモしてやるから来てもいい」なんてことを言ってくれるわけです。こんなにすごい世界があるのだということを知りました。

 

――エンジニアの働き方がまったく違うと感じたということですか。

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藤井氏:もちろん日本でも、大学や研究所では、そういったアカデミックかつスマートな働き方がみられたかもしれませんが、できるだけ早く現場に出たいと思っていた人間でした。日本のやり方も間違いではないのですが、向こうの人たちの働き方はすごいなと率直に思いました。そこで、キャリアチェンジを意識するようになります。

MBAに行くか、富士通以外の会社にいくのか、とりあえず語学を身につけるかなどいくつかの選択肢がありました。その中で、当時Javaが登場してきて、“どこでも動いて、ブラウザ上のアニメーションがプログラミングできるすごいところがある”と話題になっていたSun Microsystemsにメールを出したら、「すぐに面接に来てほしい」となり、縁あってそこで働くことになりました。

 

――いくつかの選択肢がある中で、どうしてSun Microsystemsを選んだのですか。

藤井氏:インタビューでよく「岐路にたったときの選択の理由を教えてください」と聞かれたときには、「若い時はこういう未来が…」とか語っていましたが、それは後付けですね(笑)。

当時の自分の心境を純粋に語ってみると、将来インターネットの時代がくるというのはわかっていて、サンはインターネットのバックボーンをほとんど押さえていました。Javaが出てきて、ソフトウェアが出てくるという時代ではありましたが、当時は自分のコンフォートゾーンではない刺激に当たってしまい、一気に“知らない世界を覗いてみたい”という好奇心が湧き上がってしまったのでしょうね。

コンピューターサイエンスの学部を出て、富士通に勤めていたので、新しいテクノロジーを知っているし、プログラミングもできるということで天狗になりつつ、いくつかのプロジェクトでその鼻先を折られながらも前に進むわけですが、先に進んでいくグループリーダーや課長を見ていて、自分の未来の想像がついてしまったのです。想像がつくのは悲しいかなと思い、刺激を求めていったという話です。

サンでいきなり大きなポジションを任せてもらえるわけではなく、OSに詳しいという理由でOSの担当になりました。そうしているとたまたまチャンスがあって、サーバーサイドのWebアプリケーションを作るJavaのテクニカルプロダクトマネージャーをやらせてもらうことになりました。本を執筆したり、Javaの世界にいって何か新しいものが出てきたら、私が一生懸命身につけて日本で発信するという役割を担っていましたね。

 

――チャンスの掴み方、広げ方がすごいですね。

藤井氏:セルフプロデュース的にかっこよく言えばですが、富士通にいきシリコンバレーで刺激を受けて、サンに転職をしたもののJavaの担当をさせてもらえず、でも頑張ってサーバーサイドのテクノロジー責任者になれた。そこからWebアプリケーションの世界が広がって、ブログのブームがきたので自分で発信してみたら様々な反響が出てきました。これは面白いとなって、ビジネスをやっている途中で「Mash up Award」を企画しました。そこで、今回のバトンをいただいた田中さんにもお会いしましたね。

IBMやOracleが強い時代の次はWebのサービスを組み合わせる会社の方が強くなり、どんどん強者が入れ替わるのがオープンの波です。IBMやOracleがいるところで戦って勝てるのはビジネスの戦い。

エンジニアの戦い方はこの強みを無効化するような、“新しい領域に身を置いておくことが大事”というメッセージをこめて「Mash up Award」を開催しました。その根底には、もっとエンジアに光があたるようなことをしたい、エンジニア全体の働き方をよくしたいという思いがあります。

 

――自分一人のことを考えるのでなく、すべてのエンジニアが働く環境を変えていきたいという意識を感じますが、なぜそこまでやってしまうのですか。

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藤井氏:サンでの原体験が起因していると思います。ライセンスをオープンにして、誰もがダウンロードしてその言語を無料で使えるオープンなコミュニティが大きなパワーを生むことを実際に体験しています。それがインターネットやオープンソースの世代が共通して持っている考え方ですね。

発信もそうですが、我々のような清く正しいインターネット世代というのは、自分のノウハウを発信することで、学びやビジネスチャンスとして返ってくるという原体験があります。実際に、「Mash up Award」で入賞した人たちの中には、「また一緒にビジネスしよう」といってくださる方がたくさんいます。

そして、この「Mash up Award」をきっかけにしてはじまったIPA(独立行政法人情報処理推進機構)による「未踏プロジェクト」のプロジェクトマネージャーを2009年からやっています。1年に1回のオーディションを実施して、審査した案件を9か月ほど伴走してものにするということを毎年やっています。

このプロジェクトから、たくさんの素晴らしい人材が世に出ています。例えば、横浜のガンダムのソフトウェアを作っている吉崎さんや、Gunosyやスマートニュースの創業者たちも、未踏の卒業生だったりするのですよ。

「未踏プロジェクト」にかかわってほしいとオファーがあったときは、ちょうどGoogleに転職した直後だったので、本来、転職先側で能力を発揮しないといけないのですが(笑)、これだけはやりたいなと思うくらいのライフワークになっていました。

 

――ちなみになぜGoogleへ転職されたのですか。

藤井氏:何度かGoogleの方からコンタクトをもらっていたのですが、「広告会社に行くつもりはない」ときっぱり断っていました。

ところが、サンの同僚に誘われてGoogleの海外オフィスいくと、サンと同じで全く新しい匂いがしたのですね。当時、30歳半ばぐらいだったのですが、自分で事業をやりたいと思っていたものの、Googleを見ておいて損はないだろうと思って転職してみたら、なんだかジェットコースターのようで面白かったのですよ。

Googleには、エンジニアではなく新しく立ち上げるエンタープライズ事業のマーケティングとしてジョイン。新たなチャレンジとして、プロダクトマーケティングマネージャーを極めたいと、当時それなりの数の部下がいたサンから、たった1人でプロダクトマーケティングを立ち上げるというポジションに転職しました。それと同時に未踏プロジェクトも走りはじめたという感じですね。

 

――藤井さんが考える転職基準って何でしょうか?

藤井氏:結局、外資系企業が長いのですけれど、現職に不満を言って転職する人で、いい例はあまり見ませんね。こっちはこっちで楽しいのだけれども、先々を考えると、こっちの方がもっと面白そうというような転職が良いのではないかなと思います。その当時は、今と違って外資系の転職なんてスタンダードでは決してなく、けっこうな異端です。

実際に入ってみても、ちょうど伸びていく段階だったので、本当に楽しかったですね。当時、法人向けのエンタープライズ領域を立ち上げるプロダクトマーケティングとして入ったので、かなり刺激的な時間を過ごすことができました。

その頃は、自分自身も「Mash up Award」でネットの時代がくると言っていたのですが、“その主役がこういうところなんだよね”という印象でした。サンでは、サーバーを売っていた時代もありましたが、そういう話ではないなと感じました。今では当たり前ですが、Gmailを法人ドメインで使っていたり、Googleドキュメントを共同編集できたり、10年以上前ですから当時は“なんだこれは?”と驚きました。

 

――そして次に転職先として選んだのがKDDI。はたからみるとかなり大きな転換のように見えます。

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藤井氏:普通だったら、次にくるIT外資企業のカントリーマネージャーでしょうね。しかも、2013年当時ですから、まだまだGoogleにいても良かったのではないかとは思います。

しかし、当時40歳ぐらいだったのですが、このまま外資系での経験だけでよいのかなという小さな疑問を持ってしまいました。さらに50歳を迎えた時に、僕は本当に成長できているのだろうか、ハッピーなのか?と考えたのです。米国本社の戦略を日本でどう展開するかではなく、日本本社のプロダクトマネジメントや事業そのものをやっておかないと、50歳を迎えられないのではないだろうかと。

サンの時にリストラがあって、「お前は残れ、ただしこれだけの数をリストラしろ」と言われたことがありました。そんなの嫌じゃないですか。残れと言われたものの、いつ自分が言われてもいいように転職活動をしていたのですね。その当時、ある程度のポジションにあったのでサンの役員がエージェントを紹介してくれて、ペライチの職務経歴書出したら、“いらない”と言われたのです。

ダイレクトレポートラインで、何人部下がいて、どれくらい予算をもっていて、その予算に対してどれくらいの影響を実現したのか、事業規模や組織規模のマネジメントの面では、“オレ、全然だめじゃないか”と思ったんです。事業を経験しておかないと、50歳になった時、会社のブランドに頼るおじさんになってしまうかもしれないと、今度は事業側を経験しておかねばと考えました。

 

――最終的なキャリアのイメージはありますか。若い時から持っていたのか、自分を形成していくために経験しておくことが大事と考えているのかどちらですか。

藤井氏:30年後、こうありたいと言って、そうなれる人ってなかなかいないではないですか。どちらかというと、その都度変わっていくムービングターゲットを必死に追っているという感じですね。

そんな時に、Google時代の同僚で、現在はIT批評家・執筆家として有名な尾原和啓さんが「KDDIからが面白いオファーあるみたいよ」という話を聞きました。Googleの待遇も良かったし、働き方もよくて転職する気もなかったのですが、KDDIの偉い人とコネクションがあるとビジネスに役立つだろうと思って話をしていたら、事業を経験しておきたいという気持ちが強く湧いてきて、結果、転職したという経緯です。

 

――では、現在のお役割をお聞かせいただきますか。

藤井氏:法人事業のサービスを企画し開発することですね。電話サービスからクラウド基盤など幅広く取り組んでいます。社内では黒船ペリーだと言われたこともありますが、責任あるポジションを任せていただいています。

クラウド企画開発部に着任したのですが、開発部にエンジニアはいるものの、Googleのエンジニアのようにガリガリコードを書いているわけではない。自分でやれと言われればやるけれども、そんなに予算も人もいないという状況でした。担当するサービスで大きな障害が発生してしまい謝罪したり、社長に呼び出されたり、「良いものはできたけれど売れないよ」と言われたりして、トータルに事業に関わると言うのはこういうことなのかと気づかされました。

同時に、良い面もたくさんありました。基本的に、大企業のエンジニアはみんな優秀です。ただ、制約も多いので機会が与えられていないだけだと感じました。少し目線をグローバルに向けてみたら成長するのではないかと思い、色々なことを始めたら活気がすこしずつ出てきたという感じですかね。

 

――何をどう動かしたら、活気が生まれたのですか。

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藤井氏:素晴らしいことを実行している人たちに、やり続けられる環境を整えることが私の役割かなと思いました。サン、Googleを経験しているから、箔だけはついているのですが(笑)、僕が手を動かして全部やれるわけではないので、これはいいことだ、すばらしい先進的な取り組みなんだと、支援のハンコを押してあげる。外野から何か言われても、私が応援し続けることが大事かもしれないですね。

あとは、“それってグローバルにベストな選択肢なのか?”と言うことを問いましたね。ベンダーに聞いて返ってきた答えの中から最良なものを選ぶのではなくて、自分たちで決めようと。頼んで出てきたやつの中から選んで誰かにお願いして終わり、では楽しくないよねということです。自分たちで、納得したことをやっていくことを大切にしました。海外スタートアップのクラウド基盤を使おうとしているメンバーをサポートしたり、イギリスのSIerと直接サポート契約を支援したり、という感じですかね(笑)。

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――では、藤井さんが感じる、日本のITの課題は何でしょうか。若いエンジニアの人達が置かれている環境を、どのように捉えられていて、どのようなマインドで働くとよいか、日本って働きやすいのかなども含めてお伺いしたいです。

藤井氏:ITの企画開発の方法論が古いと感じたので、サン時代にJava関連で知り合った平鍋さんに相談し、アジャイルの手法をKDDIの中で取り入れました。2013年当時、小さなアジャイルチームを作り、2年目にはオフショアをやったりして、今は300人ぐらい超えたチームになっているのではないでしょうか。

 

――2013年にアジャイルというと、日本においては先進的だったのではないでしょうか。

藤井氏:そうですね。ただ、海外では当たり前でしたからね。よく決断しましたね、ではなく、当たり前のことをどうやったら稟議承認プロセスや契約条件を含めて日本企業に適用できるのかということをメンバーと一緒に考えていきました。

最終的には、学ぶだけでなく、先生たちを増やさないといけないという課題意識から、Scrum Inc.のJeff Sutherland博士のところに個人的に伺い、「ジョイントベンチャーを作らせてください」とお願いしに行くことになりました。Scrum Inc. Japanの荒本社長は、最初のアジャイルチームのリーダーだったのですよ。

 

――藤井さんの場合、エンジニアにとって良いと思ったことについては、あらゆる手段を講じて、それを実行に持っていきますね。

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藤井氏:みんな多かれ少なかれ“これは無理だね”という壁に出会います。壁を突破するためには、使えるものはなんでも使えばいいと思います。Connecting The Dotsとは上手くいったもので、そういう使えるものというのは、必要になって初めてわかってくるものです。

だから、もしかしたら僕がスタートアップのサービスで音楽系をやったら、実はGoogleの時に始めた尺八の免許が活かせました、みたいな形で繋がるのですよ。そんな意味で、今は役に立たないと思っても、興味を持ってドットはたくさん幅広く打っておかないといけないように思います。

 

――では、最後にこれからの時代、エンジニアとしてどういう生き方をしたら良いのか、ご提言いただけますか。

藤井氏:安宅和人先生がおっしゃる「知性を磨く」と言うのは、とても良い言葉だなと思っています。ぜひ調べてみてください。よい示唆が得られると思います。大切なのは知覚能力を上げることだと。

あと、萩の松下村塾を見学した時に教えて頂いたのですが、短期間にあれだけ優秀な人材を輩出できたのは、単に勉強するだけでなく今起きている問題や事象を先生と生徒たちで対等に議論していたことだったそうです。エンジニアも技術を勉強するだけでなく、今起きている問題に対してみなで議論し発信することも大切かもしれませんね。

松下村塾の話をしてしまったので、すこし脱線させてください。私が経験したサンやGoogleのオフィスは、まるでアメリカの大学のキャンパスみたいになっていました。学生のようにフラットかつ活発に議論する環境を目指していたのだと思います。様々な役割の人間が、互いにより良いアイデアを取り入れながら、さらに高いステージに上ることが大切ですから。創業者たちはこういった環境を学生の時代から経験していたのでしょうね。無理やりっぽいかもしれませんが、松下村塾っぽくないですかね。

私の関わっている未踏プロジェクトでも、同じようなことを感じています。若い人たちの提案内容が、PMの支援だけでうまくいくケースは、残念ながらやはり稀です。僕も最初は一生懸命、提案サービスの内容について指導していたのですが、後から活躍しているメンバーを見てみると、プロジェクト期間中の発表や同期やOBとの議論を通して、成長していくことがその後の結果としての成功へとつながっているように思います。僕のサポートもすこしは役に立っていて欲しいですが、そういった環境こそが新しいイノベーションの種を生むのだと思います。

エンジニアとしてキャリアを進むのであれば、ひとりで頭でっかちにならず、周りとどんどんつながり、発信し議論しながら、どんどん新しいことをチャレンジしていけば、良いのではないかなと思いますね。

 

――藤井さんは、今後、どのようなことにチャレンジしていくのでしょうか。

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藤井氏:KDDIの同僚や社外のみなさんと共に、日本企業全体が楽しく変われるネタづくりにチャレンジしていきたいですね。事業として成立させつつ、エンジニアが、そのクリエイティビティを存分に発揮できるような環境ですかね。

スタートアップだったらゼロからのスタートなので自由に環境を設計できるかもしれませんが、大企業はそれなりに成功したベースがあるからこそのよい意味での壁や制約があるわけです。まだまだ挑戦は続きます。

 

――ありがとうございます。では、次回の取材対象者をご指定ください。

藤井氏:ソラコムの片山暁雄さんを推薦します。急成長中だったAWSから、スタートアップのエンジニアへの転身は、これからのエンジニアのひとつの選択肢なのだろうと思います。私が未踏プロジェクトで採択した酒井さんもSORACOMに加わっていますが、海外IT企業のように技術レベルをしっかりと精査した採用なども、今後のジョブ型採用の先駆なのだろうと思っています。

私個人としては、ソラコムのM&Aに関わり、また社外取締役としてビジネスに関わっていますが、ひとりの技術者としてSORACOMの新機能リリースをいつも楽しみにしています。

以上が第21回のストリートインタビューです。藤井さん、ありがとうございました!
当日はマスク&アクリル板という厳重体制でお話を伺い、最後に少しだけマスクを外していただき記事中の写真を撮影いたしました◎

▼インタビュー中の裏側ショット^^

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次回は、株式会社ソラコムの片山暁雄さんにバトンタッチ。今後のストリートインタビューもお楽しみに。

▼ご紹介頂いたTably田中 洋一郎さんの記事はこちら
【連載20】プラットフォームで時代の変化を導く、Tably田中洋一郎氏が求められ続ける理由とは
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(取材:伊藤秋廣(エーアイプロダクション) / 撮影:古宮こうき / 編集:TECH Street編集部)