【連載19】百年続く企業の新たな 100 年に挑戦する、ダイヤモンド社CTO清水巖氏が戦い続ける理由とは

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こんにちは!TECH Street編集部です。

前回、TECH Street会員が気になるヒト、山崎大輔氏にインタビューをしましたが、今回は連載企画「ストリートインタビュー」の第19弾をお届けします。

「ストリートインタビュー」とは

TECH Street会員が“今、気になるヒト”をリレー形式でつなぐインタビュー企画です。

企画ルール:
・インタビュー対象は必ず次のインタビュー対象を指定していただきます。
・指定するインタビュー対象は以下の2つの条件のうちどちらかを満たしている方です。

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“今気になるヒト”山崎氏からのバトンを受け取ったのは、株式会社ダイヤモンド社CTO清水巖氏。

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清水巖 Shimizu Iwao/株式会社ダイヤモンド社 CTO
1992年ソフトバンク(現ソフトバンクグループ)入社。出版事業部配属。国内におけるUNIX専門雑誌の草分け的存在であった月刊誌「UNIX USER」の創刊に参画し、LinuxやFreeBSDなど早くから取り上げその普及に努める。2000年よりSOFTBANK ZDNet(現アイティメディア株式会社)の立ち上げに参画。社内インフラから事業基盤まで、各種サービスの設計・開発・運用を担当。同社CTO常務執行役員を経て2019年ダイヤモンド社へ。

 

――ご紹介いただいた山崎さんより『清水さんは私よりさらに昔からこの業界にいてかなり初期のソフトバンクグループで活躍して、ITmediaの初代CTOなどを歴任された方になります。』とご推薦のお言葉をいただいております。まずは、今の清水様を形作る原体験からお聞かせ下さい。

清水氏: 自分が学生だった頃、ほとんど何も知らない状態にもかかわらず、バイト代を全部つぎ込んで、いきなり何十万円もする PC を買いました。店頭で流れているデモ画面のような CG を作ろうと思ったのですが、本体と別のソフトウェアが必要だと購入した後に知りました。バイトは時給700〜800円が相場な時代だったので、既に本体を購入しただけで財力が尽きてしまい、物凄く高価な文鎮を頑張って買ったことになっていました。それではあまりに悔しすぎるので、仕方なく付属の N88 BASIC というプログラムでピタゴラスの定理をアニメで証明するものを作り始めました。それがはじまりです。

N88 BASIC では、ほとんどグラフィック命令がなくて点とか円が描ける程度で、アニメーション機能も当然ありません。ある座標に円を描き、それを消して、次の座標に円を描けば、パラパラマンガのようにアニメーションすると思ったのですが、1画面消去するのに1秒以上かかっていたので、丸とか点の描画スライドのようになってしまい、アニメとはほど遠い結果でした。

なんとか高速化したいと思っていたのですが、あるとき、特定の座標に白い点を描いたら、全画面消去でなく同じ座標に黒で点を描くと、高速に画面消去した結果と同じことに気づきました。いま聞くとアホのような話ですが、当時は試行錯誤しながら自分で解法を見つけたので、その体験はとてつもない快感でした。

そうしてプログラミングにハマった結果、独学でCPUに直接命令が書けるアセンブラを書けるようになっていました。アセンブラが書けるようになると、良いアルバイトを得られます。そこで言語の実践的な使い方を覚えていくうちに、さらに力がついて色々なものが作れるようになっていきました。

やがて、ゲームプログラムのアマチュアコンテストに優勝し、その主催であるゲーム会社に賞金を取りに行くと「いつでも遊びに来ていい」と言われたのですね。それで何度か遊びに行くうちに、「今度新しいゲームを作るから、一緒にやってみないか」と誘われプロジェクトの開発メンバーになっていました。

“プロが作るゲームって、どんな感じだろう?”と興味を持って参加したのですが、プロもアマチュアも持っている情報にあまり差がなく、ただひたすら徹底的に処理を実装しきる点だけの差でした。

その会社ではゲームの印税で車を買っているひと達がたくさんいました。車を買うには実印が必要だったり、翌年には税金を払う必要だったりしますが、そんな当たり前のことも学生の僕は知りませんでした。

 

――それほど稼げる学生だった当時の清水さんは、どんな社会人になろうと考えるようになっていたのですか。

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清水氏:まあ、普通の社会人として働く必要はないと思ってしまいましたね(笑)。理系の大学院生は半ば強制的に大手メーカーに就職させられるような時代でしたが、僕自身、それは性に合わないと思っていましたし、ゲームを作るだけで食べていけるならちょうどいいと思い、就職活動は一切しませんでした。

そして、寝ても覚めても、プログラミングをして過ごしました。好きなことをやって食べていけるのでなんて幸せだと思っていました。今とは比べものにならないくらい当時はハードウェアの制約が多かったですが、データ構造や処理法を脳みそがちぎれるほど考え抜いて、他のゲームにできないことを実現することに喜びを感じていました。

やがて没頭しすぎている自分を“人としてどうなのか”と疑問に思うようになり、普通の生活をしようとコンピューターに対する知見やスキルが活かせる小さな出版社に就職しました。小さな会社なので、編集からデザイン作業まで全部自分でやる必要がありました。そこで鍛えてもらえたのは、編集者としてはとても大きかったと思います。

その後、ソフトバンクの出版事業部に転職しました。当時は、ソフトウェアの流通のために雑誌を作るという戦略をとっていた時代で、まだ社員数が500人くらいの頃でしたね。

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そこで、UNIX雑誌の創刊メンバーとして配属されました。配属時のUNIX経験は学生時代に一般ユーザとして利用した程度で、ほぼ中身は理解していませんでしたが、ちょうど中型コンピューター専用のUNIXがPC/ATで稼働するLinxuやFreeBSDが出始めた頃だったので、自宅PC/AT+モデムな環境で会社と同様な環境を構築しようと夢中になりました。

今日ではDockerイメージなど一瞬ですが、当時の高速モデムでも28,800bpsなのでCD-ROM1枚分をダウンロードするのに1か月以上もかかってしまう時代でした。横須賀の某研究所ネットワークを介してデータを取得しつつ、同時にその研究員の方々にいろんなことを教えていただきました。気づくと、インターネットブーム到来の頃にはずいぶんと詳しくなり、出版事業部のポストマスターとしてメールやネットワークの管理者になっていました。

やがて孫さんの大号令によって、ソフトバンク全体がインターネット・ビジネスにシフトしていきます。すでに出版不況が始まっており、“雑誌で読むよりもネットで見た方が早い”と思い始める人々が出始めていました。出版事業部でも大小様々なサイトが雨後の筍のように企画されていました。その中の1つに、孫さんが買収してきた会社とジョイントベンチャーを立ち上げるという話がありました。私はテクニカル系の雑誌の局長でしたが、その職を辞してSOFTBANK ZDNet(現ITmedia)の立ち上げに参画しました。

当時、そこには編集者も営業もいましたが、Webサーバーなど技術的なことが分かる人がいませんでした。出版の場合は、編集と営業がいればなんとか回りますが、インターネットビジネスはテクノロジーを司る人がいなければ何も始まりません。私はサーバーも管理していたので、編集という仕事を「中休み」として、技術の世界に戻ったという感覚でしたね。

当時のZDNetには50人程度しかいませんでしたし、そのうちの30人が編集者、残りの十数人がバックエンド側、すなわち営業とエンジニアチームとなります。ところがエンジニアチームはわずか3人で、私1人で何でもやらなければならない状態。分からないことは昔の伝手を使って調べていき、コストコンシャスな方法を探りながら出来ることを1つずつ積み上げていきました。

僕は、基本的には、混沌とした未開の地で働くことが得意です。混沌とした中から規則性や例外を見極めて何もないところからシステム化する行程が好きです。混沌とした場所と言っても、黎明期とか先端な場所です。そこは過程がどのようなものであっても関係なく、アウトプットだけで評価されるシビアな世界ですよね。

学生時代に就活をしなかった理由もそこにありますが、大企業に入りスーツを着て何かをすると、どうしても偉くなった気分になります。そこにはロールとしてその人の価値があるだけで、自分の価値ではありません。なので、そういった既成概念のところに入ってもまったく意味がない、それよりも先端で良いものをアウトプットしながら、世の中に価値を提供できる場所で働きたいと思っていました。

 

――ソフトバンクはまさに最先端を意識している企業ですし、そこから派生したITmediaもまさに、清水さんの価値観にピッタリだったという感覚だったのですね。

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清水氏:ITmediaは1999年12月創業です。ドット・コムのブームでしたが、資本金は3000万からスタートした小さな会社なので資金力はほとんどありませんでした。従業員が50名もいるとすぐ火の車です。アクセス数が増えてもサーバーを買うことさえできません。

広告モデルなのでADサーバーが必要でしたが、とても高額でアクセスが集中してもすぐには増設できませんでした。提携先のアメリカは上手くやっているという話を聞いたので、直接ボストンに乗り込み、エンジニアからヒアリングを実施したことがあります。ところが、スケールアップすればいいという考え方が主流で、コストに関してはほとんど気にしておらず、まったく参考になりませんでした。

しかし、私たちは資金力がなかったので、無駄なコストをかけずに処理を高速化する点を徹底的に追求する以外に生き残る道はありませんでした。結局、自前でやった方がいいという結論に至ります。少ないサーバで高速配信できるCMSを作り、同様にADサーバーを作るというときに、前回の記事に登場した山崎さんが独立するということを聞きつけ、そのタイミングで一緒にやろうという話になりました。さらにリード・ビジネスのような新しいシステムも自分たちで作り上げ、その後のITmediaの収益の大半を占めるサービスの基礎を作り上げました。

「自分の人生を他人に任せるな」とよく言いますが、当時の会社のステージでは、会社の運命をベンダーに握らせず手の内化できたことは、経営上自由度が大きかったと思います。その分、メンバーにはずいぶん苦労をかけてしまいました(笑)。

 

――先端で面白い仕事ができていたITmediaから、現在のダイヤモンド社に移籍された理由をお聞かせください。

清水氏:2019年にITmediaは東証一部上場を果たし、会社のステージとしては1つの節目を迎えていました。会社も人と同じでそれぞれのステージがあります。0から起こすステージ、10を100にするステージ、100を1000にするステージです。

当然ですが、ステージが異なれば、求められるバリューが変わるので、働き方も変える必要があります。このまま最後までという選択肢もありましたが、自分を客観視できず動けない花になるよりは、もともと好きな0-1や10-100の世界で新たなチャレンジしてみようと考えました。

 

――ダイヤモンド社と聞くと、伝統のある会社で、むしろ“できあがっている”ようなイメージがあるのですが…。清水さんから見て、どのような部分が混沌としていると思われたのでしょうか。

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清水氏:そうですね。僕も社長からお声がけをいただいた当初は、先端とは程遠い場所だと感じ、興味を持てませんでした。しかし、ありがたいことに「CTOとして来てほしい」と1年に渡って熱心に誘っていただきました。

何度か社長にお会いしながら職場や業務の様子を伺っているうちに、次第に大きな可能性と混沌とした面白さを感じるようになりました。いくら素晴らしい腕前のコックを揃えても給仕が一流でなければ三つ星レストランにはなれないと言われます。これは非常にもったいないですよね。デジタル視点でダイヤモンド社を見たときに、そんなチグハグさと可能性を感じました。

また、社長とコミュニケーションを重ねる中で、なんとなく認識も合っていると感じはじめました。「メディアの興亡」や「2050年のメディア」などのいわゆるメディア論から本に記載されている経営判断の分かれ目などを話していくうちに一緒に働けると確信するに至りました。こういった立場になると、やはり経営者との認識の一致は重要です。

ダイヤモンド社のデジタルの大きな課題を端的に表現すると、「背骨がない」ということに尽きます。ドメイン戦略もコンテンツ配信の仕方もそうですが、ネットの世界では背骨があり、強力にそこだけ突き出すという方が比較的早めに効果を生みます。どこも似たようなもので小さくまとめてしまうと小さいままで終わってしまいがちです。ソフトバンクも最初のころはいまのダイヤモンド社とあまり変わりません。20年前の失敗を反省しながら、まずは事業を集約する基盤を作るところから始めています。

社長からは、「100年続いた企業の次の100年に続くテジタルの礎を作ってほしい」というミッションを与えられています。100年続いているのにデジタルの発射台、すなわち基盤がない状態にあるので、そこを整備するだけで、優れたコンテンツをさらに活用することができるようになるだろうと考えています。

 

――今まで、そういった意識すらなかった会社を変えていくためには、単純にシステムだけではなく人も変えていく必要があると思います。その辺は、どのように変えていくおつもりですか。

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清水氏:僕自身、周囲から反対されることに関しては、あまり気になりません。それを気にしていても仕方がありません。ITmediaも様々な会社を吸収しているので、それまでのやり方を変えたくないと軋轢が生じたりもしましたが、結果的にはやはり良いものが残ります。

なので、反対しているのであれば反対している理由があり、きちんと建設的な議論ができればいいのです。知られることによって既得権益がなくなるということは、既得権益でも何でもありません。隠すから疑心暗鬼になって不要な軋轢を生むのだと思います。すべてをオープンにして議論を深めていけば、必ず良い答えが見つかり、それがしっかり根付いて残っていきます。

 

――清水さんの中では、職場選びの基準として“混沌としているかどうか”があげられると思いますが、他にはなにかありますか。

清水氏:あとは隣接領域ですね。全く違う分野にはいきません。孫さんが「孫の二乗の法則」という本を出版していますが、そこには「地の利を生かす」という記述があります。つまりは隣接領域から攻めるということです。そういった意味では、本当は世の中の最先端は違うところにあるかもしれませんが、自分と地続きの最先端で働くことを求めているといえるでしょうね。

 

――エンジニア組織作りの肝や心掛けていることを教えてください。

清水氏:少なくとも「やりたい」ということをやらせない文化は嫌ですね。チャレンジしたい人が、チャレンジをしやすくしたいと考えています。反対に言うと、「言ってくれたらやります」という人は敬遠します。世の流れではそういった人をどのようにモチベートして気持ちよく働いてもらうのかを考えるかと思いますが、少人数で混沌としているステージではそういう人は沈んでしまいます。少々厳しいですが、「泳げないのなら溺れろ」というのが流儀です。私は「教育できていない」と言われるのが一番嫌いです。「大人を教育する」とはずいぶんと不遜な考え方だと思います。

混沌としている先端では、みんなが同じ船に乗っていて、みんなで困っている状況ですよね。そういった状況を楽しめるような志を同じくしている人が、上下関係なしに自分の得意な役割を全うすることが理想です。

加えて言うならば、一芸に秀でている人が好きです。マネジメントも、その一芸だけに当てればよくて、あとはみんなに目を瞑ってもらいます。そういうスタイルが合う人もいれば合わない人もいるので一概に言えませんが、少なくとも私の場合、「もっと部下を躾ろ」といような文化の会社とは合いません。

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――今後のビジョンをお聞かせいただけますでしょうか。

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清水氏:個人的な働き方としては、一生コードを書いていたいと思っていますし、実際に今も書いています。書いている方が勘も鈍らないし何より楽しいです。仕組みを作っているだけ、調整するだけの仕事ならば、この職業はしていません。

エンジニアになるためにはどれくらい勉強する必要があるのかとよく聞かれますが、勉強だと思っていたらエンジニアはやれません。勉強をしなければ食べていけないと思うエンジニアは、そもそも向いていないと思います。

興味があり、新しいことが出てくると試してみたいと思うものです。安定してから触りはじめるエンジニアもいますが、新しいものを選んで真っ先にダイブして、ケガをして帰ってくることも重要です。私は間違いなく後者のタイプの人間です。

 

――いちエンジニアとして手を動かしながら、社長から与えられたミッションに広げていくという感覚なのでしょうか。

清水氏:色々な仕事が降ってきますが、あまりに平行度があがってきてしまうと、極端に効率が悪くなるので調整を始めます。仕事が来るのは価値が認められてうれしいと感じる反面、私でなくてもやれる仕事はなるべく他の方に任せたいと思っています。理想としては、三方良し、が成り立つようなプロジェクトを見つけることです。自分と会社、社会に価値を提供できるようなものという意味ですね。

 

――ありがとうございます。最後に、これからの時代、エンジニアとしてどういう生き方をしたら良いのか、ご提言いただけますか。

清水氏:若い内は自分のことを分かっていそうで分かっていないと思うので、聞く耳をきちんと持った方がいいですね。そして、それとは逆に流され過ぎないことも大切です。“世の中のブームはこれだ”と流行り廃りを一生懸命に追いかけるのではなく、低レイヤーの要素技術をマスターしつつ、次に流行りそうな技術を見極めることが大切です。先ほども言いましたが、勉強だと思うと辛いです。

また、今はまだ能力を発揮できていないだけかもしれませんし、違うところで発揮できるかもしれないので、自分の価値をきちんと見極めた方がいいと思います。エンジニアでカテゴライズされて見ているところもあれば、一人ひとりを見ているところもあり、それはいろいろです。同じ商品でも場所を変えると価値が変わることがあるように、自分の価値を理解してもらえる場所で働いた方が幸福だと思います。

 

――清水さんのように、敢えて混沌とした状況を選んでいくというのは、成長を続ける生き方だと感じました。

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清水氏:成長するという意味では、大きなところに行くのではなく、敢えて小さな組織を選ぶのも手ですね。ベンチャー企業は何でもやらなくてはならないので、そこで自分に向いているものを探すのもいいかもしれません。専門性はその後でも見つけることができるので、何でもやるということが楽しいかもしれませんね。「フルスタックエンジニアを目指している」なんてみんな言いますが、その理由を明確に答えられる人はあまりいません。

そういった意味では、現在のダイヤモンド社は成長できる場所になり得るかもしれません。現在、エンジニアを絶賛大募集中なので、ぜひお声がけいただければと思います。

 

――ありがとうございました。とても勉強になりました!それでは、次回の取材対象者を教えてください。

清水氏:Tably社の田中洋一郎さんを推薦します。彼とは20年前に知り合いました。先ほど話しにも出た某研究所の方の紹介で、Javaで広告売上管理システムを作ってもらいました。

Webブラウザ上のアプリが珍しい時代で、エンジニアも少なかったので、田中さんが欲しいと思っていましたが、なんとなく声をかけないまま現在に至っています。その間、田中さんはエンジニアとしてmixi、DeNA、LINE、Money Forwardなどの最先端の企業で活躍されたスーパーな方で、いまは自作キーボードの沼にはまっています(笑)。大変ユニークな生き方をしている人なので、楽しい話が聞けると思います。

以上が第19回のインタビューです。清水さんありがとうございました!

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久しぶりのオフライン取材で、バトンショットもいただきました!!素敵な笑顔!
次回はTably社田中洋一郎さんにバトンタッチ。今後のストリートインタビューもお楽しみに。

▼ご紹介いただいた山崎大輔さんの記事はこちら
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【連載18】テクノロジーで業界課題に立ち向かう、山崎大輔氏が語るエンジニアの武器と働き方戦略とは

(取材:伊藤秋廣(エーアイプロダクション) / 撮影:古宮こうき / 編集:TECH Street編集部)